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2005年11月の6件の投稿

2005/11/28

日本の教育( θ_Jθ)コマッタモンダ

大学卒業後実家の家業を手伝っていた友人が、独立して学習塾を立ち上げました。独立を決意した時、周囲は子どもの数が減っていく時代に塾は衰退産業だと反対。しかし彼は個別指導というニッチな分野であること、また日銭商売であることから有望だと判断しました。唯一保険をかけたとすれば一から始めるのではなく、全国チェーンの塾のフランチャイザーとして始めたことぐらいです。しかし、そこではチェーンの塾の名前は知られておらず、一からはじめるのとあまり変わらない・・・

子どもたちの現状を聞いて驚きました。中学3年生でローマ字がかけない、分数計算ができない、という子どもたちを懇切丁寧に個別に指導していくのだそうです。

個別指導では先生1人が生徒3人をみます。個別に教えるのだから、同じ教室に高校3年生と小学2年生がいても問題ありません。学年やレベルごとに教室を用意する必要がなく、開業時の設備投資を抑えることができるわけです。

大学生のアルバイトを講師として雇って、その管理をすると同時に自分も教えています。塾は順調に伸びており、まもなく2校目も開設。ほとんど休みがなくて忙しいけれど、日本の教育制度のゆがみを自分が正すのだという大きな目標に向かって頑張っています。

決断を迫られたとき、まわりの人はかならずやめておけといいます。しかしリスクをとってチャレンジしなければ何も始まらないのだ、ということを友人に教えてもらった気がします。

あせれば人は、ごく自然に以前の成功例にすがりつくようになる。
(ローマ人の物語IV ユリウス・カエサル・ルビコン以前、塩野七生、380ページ)

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2005/11/27

塩野七生「ローマ人の物語」 のちょっといい言葉

古代ローマ時代のローマ街道の道端にあるお墓にこんなことが書かれていたそうです。

これを読む人に告ぐ。健康で人を愛して生きよ。あなたがここに入るまでのすべての日々を。

幸運の女神は、すべての人にすべてを約束する。と言っても約束が守られたためしはない。だから一日一日を生きることだ。一時間一時間を生きることだ。何ごとも永遠ではない。生者の世界では。
(ローマ人の物語VI、塩野七生著、257ぺージ)

限られた時間を持つ人間が、一日一日、一時間一時間を大切に生きていく。

ローマ時代から、人間の本質的なところは変わらないのですね。

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2005/11/20

元気 五木寛之著

つい買ってしまいました。

五木寛之のこころと体のシリーズが初文庫化で平積されています。「大河の一滴」が「元気」の海に流れ込むという一連の流れになっています。「元気」は宇宙を創りあげた根源のエネルギーの大元の海だと考えています。死ぬということは、無くなるのではなく、元気の海に帰ることだと。

この本の中で一番共鳴したのは、

人間とは、
「からだ」
と、
「こころ」
と、
「たましい」
の三つからなる自然の一部である、と。

「からだ」と「こころ」があることに疑問を感じる人はいないでしょうが、「たましい」と聞いた瞬間になにかあやしげな新興宗教かなにかを想像する人が多いのではないでしょうか。これについて著者は、

しかし、私の確信するところだが、本当のことや、真実は、つねにどこかにいかがわしい感じをただよわせているものなのだ。一見、まともに感じられる話にこそ、じつは怪しいのである。

モノである「からだ」と「こころ」があって、モノではない「いのち」、言い換えると「たましい」、「潜在意識」や「根元」と呼ばれるものがそれらを支配している。自分とは「からだ」と「こころ」だけでできているのではなく、この二つのものを統合する自分があって初めて生きていると指摘しています。

中村天風の「成功の実現」にも同じことが書いてあります。病の身を引きずりながら、カリアッパ師と自分とは何かという問答をする中村天風も最初は体が自分と思っていました。そうではないと師からいわれた天風は心と答えますが、やはりそうではない。

「お前ねえ、もう少し頭がいいと思ったら、案外よくないな。心や体はね、お前でないってことはひと目で自分自身わかるはずだ」

考えたあげく天風は体も心も生きるための道具であることに気づきます。宇宙のなかに存在する生々化育のエネルギーである「気」が、現実の世界にその生命を表現しようとする場合に必要な道具として与えられたのが肉体と心なのです。

「病は気から」といいますが、忘れていれば治るのが病気。

「たましい」という言葉でなくても、宇宙を創りあげたスーパーパワーが自分を作っている、たとえ信じられなくても、そう考えた方が気が楽になることが多いのではないでしょうか。

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2005/11/14

蓮如 ―われ深き淵より― 五木寛之著

小説よりも戯曲の方がおもしろい。

戯曲は、舞台の台本なので背景の描写から始まって登場人物の話し言葉で物語が進行する。テンポのよい言葉の応酬が引き込むのだろうか。ほかの蓮如関係の本とくらべるとおもしろさが際立っている。

本願寺第7代法主存如の庶子である蓮如は、応仁の乱から続く戦乱・末法の世の中に絶望する庶民を阿弥陀如来の力で救おうとする。親鸞の教えを広めることを自らの使命として魂の教えが続けられる。

部屋住み時代に人々にわかりやすく親鸞の言葉を伝えていく蓮如。第8代法主となった後、様々な親鸞の亜流の教えが広がる中で、苦労して「ふみ」を書くことで本当の教えを伝えることに成功していく。比叡山延暦寺の衆徒に本願寺をこわされ、命からがら京都を逃げ出すまでの半生を描いている。

心に残った言葉

本当に深く悩むためには、つよい力がいるのだ。

すなわち阿弥陀如来とは「限りなき真実の光」のこと。

わしらはあんたを頼んだのですぞ。この腕につかまれ! と叫んでくだされ。われら命がけで、おたのみもうす! と誓いましょう。これがわれらの本心じゃ。わかってくだされたか、蓮如どの。

よし、自力のはからいを捨て、他力の大きな御手(みて)にこの身をまかせよう。

そうか。そうだったのか! 自分で親鸞聖人に負けない文章を書こうと、今の今まで自力の底をどうどうめぐりをしていたのか。このわしは、ただの一本の筆の穂先。そう思えばよかったのだ。この蓮如というつたない筆をとおして親鸞さまが語られておるのか。

知ったふりではなく、心にかかることを口に出して素直に聞くことこそ信心の第一歩じゃ。念ずるのはやさしいが、信ずるのは難しい。一歩一歩ゆくのじゃ。

他力の信心はのう、人の煩悩を断てとは言わぬ。煩悩あればこそ信ずれば救いあり、と教える。泥中にあれば花咲く蓮華かな。

されば朝(あした)には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。

「信」だ。「信」の一字を心に秘めて生きておればこそ、堅田衆はつよいのじゃ。

かつて「笑い」というのは知的で高級で批判的なものとして扱われてきました。それに比べて涙とか、感動とか、感激とかは、非常に情緒的で低い人間の心身状態だという概念がある。それは違うんじゃないか。涙を流している人間は、涙が生物学的にでてくるわけだから、肉体的反応がそれだけ強いんです。

仏教の本質というのは、母性的なもので、そしてそれは生命を産んでいく。そう考えてみると、母というのは阿弥陀仏なんです。阿弥陀の光に照らされて、その光に抱かれて浄土に往生する。

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2005/11/05

米国で最も働きがいのある会社 J.M.Smucker

アメリカで最も働きがいのある会社としてFORTUNEで紹介されたJ.M. Smuckerには次の4つの約束があるそうです。

1.人の話に真剣に耳を傾ける。

2.他人の粗探しをせずに長所を見つける努力をする。

3.つねにユーモアのセンスを忘れない。

4.仕事がうまくいった時は「ありがとう」と感謝する。

斉藤茂太さんも同じことを著書で述べられていたと思います。

自分の職場もこのようにしたいですね。

J.M.Smuckerのホームページ

http://www.smucker.com/

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2005/11/04

胡蝶の夢 司馬遼太郎

泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船) たった四杯で夜も眠れず

ペリーの来航で騒然とする幕末。勝海舟が長崎でオランダから海軍の教えを受けているそのとき、同じ長崎で奥御医師(将軍専属の医師)である蘭学者、松本良順もオランダの医師から体系的な医学を学んだ。佐渡出身で良順の弟子、島倉伊之助は、恐ろしいまでの記憶力でオランダ語、英語、ドイツ語、ロシア語などの多国籍の言葉を理解する一方で、一般的な常識を欠くために世の中からはみ出してしまう。漢方医学一辺倒の時代に、蘭学をテコに幕府組織の崩壊の中を生きる二人を中心に物語は進行する。

戊辰戦争で良順は、従軍医師として幕府軍とともに会津へ転戦する。横浜に逃れた後に新政府から許される。伊之助は東京大学の前身で外国人医師の通訳を勤めるものの彼らが帰国するとともに免職。その才能を十分に生かすことなく、若くして肺結核で死去した。

坂の上の雲」を読んだときも同じような感想をもったのだが、いったい司馬遼太郎は何をいいたかったのだろうか。あらゆるものの価値が大きく変わった明治維新を生き抜いた2人の若者の物語りは、なぜか無常観を与えるだけだったような気がする。時代の荒波にもまれながら人間は何をなしえたのだろうか。一方で栄達した勝海舟のような人もあれば、伊之助のようにさびしく世を去った者もいる。

どんな人生であれ最後は死んでしまう。なにをどうしても結局いっしょじゃないか、というような投げやりな無常観に打ちのめされそうになる。「無常」という言葉には悲観的なニュアンスがある。平家物語の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」のように。

しかし仏陀はそのような意味でいったのではないと思う。無常とはただ単に常ならず、万物は変化するという、乾いた意味でいったに違いないと松下幸之助もいっている。

湯王より時代はさがるが、いまから二千五百年前に、お釈迦さまは、諸行無常ということを説いておられる。また、時を同じくしてギリシャのヘラクレイトスという哲学者は、「万物はすべて流転している。太陽ですらも日に新たで今日の太陽はもはやきのうの太陽ではない」と喝破しているということである。そのように洋の東西を問わず、いにしえの聖人、賢人がひとしく日に新たということの大切さをといてるのである。
「指導者の条件 人心の妙味に思う(PHP文庫、松下幸之助著)」より

無常観にとらわれることなく、日にあらたに生きていきたい。

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