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2005/11/14

蓮如 ―われ深き淵より― 五木寛之著

小説よりも戯曲の方がおもしろい。

戯曲は、舞台の台本なので背景の描写から始まって登場人物の話し言葉で物語が進行する。テンポのよい言葉の応酬が引き込むのだろうか。ほかの蓮如関係の本とくらべるとおもしろさが際立っている。

本願寺第7代法主存如の庶子である蓮如は、応仁の乱から続く戦乱・末法の世の中に絶望する庶民を阿弥陀如来の力で救おうとする。親鸞の教えを広めることを自らの使命として魂の教えが続けられる。

部屋住み時代に人々にわかりやすく親鸞の言葉を伝えていく蓮如。第8代法主となった後、様々な親鸞の亜流の教えが広がる中で、苦労して「ふみ」を書くことで本当の教えを伝えることに成功していく。比叡山延暦寺の衆徒に本願寺をこわされ、命からがら京都を逃げ出すまでの半生を描いている。

心に残った言葉

本当に深く悩むためには、つよい力がいるのだ。

すなわち阿弥陀如来とは「限りなき真実の光」のこと。

わしらはあんたを頼んだのですぞ。この腕につかまれ! と叫んでくだされ。われら命がけで、おたのみもうす! と誓いましょう。これがわれらの本心じゃ。わかってくだされたか、蓮如どの。

よし、自力のはからいを捨て、他力の大きな御手(みて)にこの身をまかせよう。

そうか。そうだったのか! 自分で親鸞聖人に負けない文章を書こうと、今の今まで自力の底をどうどうめぐりをしていたのか。このわしは、ただの一本の筆の穂先。そう思えばよかったのだ。この蓮如というつたない筆をとおして親鸞さまが語られておるのか。

知ったふりではなく、心にかかることを口に出して素直に聞くことこそ信心の第一歩じゃ。念ずるのはやさしいが、信ずるのは難しい。一歩一歩ゆくのじゃ。

他力の信心はのう、人の煩悩を断てとは言わぬ。煩悩あればこそ信ずれば救いあり、と教える。泥中にあれば花咲く蓮華かな。

されば朝(あした)には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。

「信」だ。「信」の一字を心に秘めて生きておればこそ、堅田衆はつよいのじゃ。

かつて「笑い」というのは知的で高級で批判的なものとして扱われてきました。それに比べて涙とか、感動とか、感激とかは、非常に情緒的で低い人間の心身状態だという概念がある。それは違うんじゃないか。涙を流している人間は、涙が生物学的にでてくるわけだから、肉体的反応がそれだけ強いんです。

仏教の本質というのは、母性的なもので、そしてそれは生命を産んでいく。そう考えてみると、母というのは阿弥陀仏なんです。阿弥陀の光に照らされて、その光に抱かれて浄土に往生する。

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コメント

> 管理人様

TBありがとうございます。
拙僧、宗派は違えど蓮如上人の生き方に共感するものであります。

この前半生は本当に面白くて、拙僧も繰り返し学んでおります。拙僧のブログの連載記事はあと、蓮如上人が亡くなるだけなのですが、なかなかまとまりません。

どうぞまたお越し下さいませ。

投稿: tenjin95 | 2005/11/14 07:16

tenjin95さん
トラックバックとコメントを頂き、ありがとうございます。
蓮如の連載は中身の濃いすばらしいものですね。完結編を楽しみにしております。
また寄らせていただきますので、よろしくお願いします。

投稿: たっくん | 2005/11/14 23:05

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